2025年8月31日に放送されたNHKスペシャル【大阪激流伝】のキャストとネタバレ感想をまとめています。
終戦から1970年万博までの大阪を町工場の家族を舞台に描く、ドキュメンタリードラマとなっています。キャストがすべて関西出身者となっているのが注目の作品です。
キャストとスタッフ
主要人物
- 田口留蔵(たぐち とめぞう)…堤真一
大阪砲兵工廠の腕利き旋盤職人。「田口鐵工所」代表
田口家
- 田口タカヰ(たぐち たかい)…麻生祐未
留蔵の妻 - 田口雅征(たぐち まさゆき)…波岡一喜
留蔵・タカヰの次男 - 田口ミチコ(たぐち みちこ)…伊東蒼
雅征の長女。留蔵・タカヰの初孫 - 田口幸(たぐち さち)…谷村美月
雅征の妻 - 田口春夫(たぐち はるお)…
雅征の長男。ミチコの弟
その他
- 夫成民(ふ せいみん)…趙珉和
在日コリアンの活動家 - 石川…
「田口鐵工所」の工員 - 重原…
「田口鐵工所」の工員 - 八代…
「田口鐵工所」の工員 - 大倉…
砲弾制作の依頼主 - 幸の父…
- 白石…
「田口金属工場」の工員 - 山中…
「田口金属工場」の工員 - 矢坂…奥野壮
ミチコの大学の先輩 - 井浦…
ミチコの友人 - 北條…
ミチコの大学の先輩 - 野宮…
ミチコの友人 - 佐野…
ミチコの友人 - 大阪城…古田新太
物語の語り手
スタッフ
- 作・演出:佐野達也
- 制作統括:太田宏一(NHKエンタープライズ) 樋口俊一(NHK)
- プロデューサー:伊藤純
【大阪激流伝】のあらすじ
【新作Nスぺ】
— NHKスペシャル(日)夜9時 (@nhk_n_sp) August 28, 2025
大阪激流伝
おもろいこと おそろしいこと ぎょうさんおました
31(日)夜9時~[総合]
終戦前日、空襲で壊滅した巨大軍需工場
そこで働いていた人々は戦後大阪の復興に大きく貢献した
激動の時代をドラマとドキュメンタリーで描く
出演 #堤真一 #麻生祐未 ほか
語り #古田新太#戦後80年 pic.twitter.com/fXuk3mdgEb
1945年、終戦前日の空襲により、大阪砲兵工廠は鉄くずの廃墟と化した。終戦後、砲兵工廠で働いていた田口留蔵(堤真一)は、妻のタカヰ(麻生祐未)と一緒に瓦礫の山の中から板金を探し出し、鍋を作って闇市で売っていた。やがて旋盤を購入し、小さな町工場として再建する。
1947年、戦後2年たって息子の雅征(波岡一喜)が戦地から戻って来た。そして留蔵の工場で働くことになった。兄の妻だった幸(谷村美月)と雅征は一緒になり、工場も次第に大きくなっていった。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、日本は特需で好景気に沸く。だが、留蔵は砲弾はもう作らないと仕事の依頼を断っていた。雅征は生まれた子どもを食べさせていくにも、今以上に収入を増やしたく父と意見が対立する。
やがて下した決断に、今度は雅征自身が悩まされることとなり……。
【大阪激流伝】のネタバレ
砲弾の依頼を受けたことで収入は増えたが、ある日在日コリアンの夫成民が、同胞を殺す砲弾だと製造を中止するよう求めてきた。最初は無視していた雅征だったが、自分が戦地で経験したことを思い出し、砲弾の製造を中止した。
好景気に沸く日本では、プラスチック成型の技術が進化する。雅征は砲弾をやめて金型を作ることになった。
1969年、雅征の娘のミチコは成長し、大学生になった。ベトナム戦争に対する反対デモに参加し、翌年開催される大阪万博に対抗して「ハンパク」開催に彼女たちは沸いていた。
ある日の反戦デモ参加中、ミチコは偶然参加していた祖父の留蔵と出くわす。意気投合したミチコは、ハンパクの手伝いを留蔵にお願いした。
大学の先輩である矢坂に留蔵は戦争体験者として、みんなの前で話をして欲しいと頼まれる。留蔵が引き受けて話し始めると、砲弾を作っていたことを指摘されて不穏な空気になる。ミチコが反論するが収まらず、2人は結局その場を立ち去った。
万博が開催され、さらに大きくなった工場には新たな工員が加わっていた。それは矢坂だった。就職に失敗した矢坂に、留蔵が声をかけて雇ったのだった。その留蔵も亡くなり、雅征は父のように職人気質の人物として新たな世代の工員と接した。
大阪の工場はかつての5分の1までに減ったが、今もまだ誇りを持って働く人たちが、海外から仕事をしにやってきた人たちも巻き込んで工場を営業していた。
第一章 鍋と三輪車 1945年~
舞台は1945年秋、大阪砲兵工廠跡地。田口留造(堤真一)は焼け跡で板金を拾い集め、妻のタカヰ(麻生祐未)と共に持ち帰った。帰る途中、2人は「田口眞吾之墓」と刻まれた墓石に手を合わせ、語りかけた。
終戦の前日までに大阪は大小合わせて50回以上もの空襲を受け、街は焼け野原となった。大阪城周辺の砲兵工廠は東洋随一の軍需工場であり、最大6万人の労働者が大砲や砲弾を製造して日本の戦争を支えた。だが、1945年8月14日、終戦前日にはB29による爆撃で壊滅し、鉄屑の廃墟と化した。
砲兵工廠で旋盤工として働いていた留造は持ち帰った板金で鍋を作り、「武器ではなく生きるための道具を作る」と語った。翌朝、その鍋を闇市へ持ち込む。リヤカーを引く途中、妻から「新品の鉄や非鉄金属を積んだトラックが闇市に入っている」と聞かされる。それは戦争末期に横流しされた材料で、大砲1年分が残っていたという噂が流れていた。留造は正義感から追及しようとするが、子どもたちにかばんを奪われ、大勢に襲われる。そこへ妻が駆けつけ、機転をきかせて夫を救った。
留造は「飢えは人の心を奪う。ひもじい、寒い、もう死にたい…人間はこの順番で壊れていく」と語り、妻のへそくりを工面して旋盤を購入する。工廠時代の技を活かし、再びものづくりに挑む決意を固めた。旋盤は先輩職工が安く譲ってくれたものだった。
大阪の復興は町工場から始まった。空襲で1万3千以上の工場が焼失したが、終戦翌年には8割が操業を再開した。その大半は職工5人以下の零細であり、砲兵工廠で鍛えられた職人たちや下請け工場がゼロから立ち上がった。
やがて留造は三輪車を作り、戦災孤児たちと交渉して三輪車と銃を交換する。のちに「田口鐵工所」と書かれた看板を掲げ、家族と共に写真に収まった。
第ニ章 ミシンと砲弾 1947年~
工場で働いていた留造のもとに、戦地から次男の雅征(波岡一喜)が帰還した。フィリピンに送られていた彼が戻ったのは戦後2年を経た頃であり、家族は大喜びで迎えた。長男の誠一は沖縄で戦死し、眞吾は砲兵工廠の空襲で命を落としていた。仏壇に手を合わせる母のもとへ、誠一の妻であった幸(谷村美月)が訪れ、雅征の生還を共に喜んだ。幸は誠一と結婚したが、共に過ごしたのはわずか3か月だった。その後、田口家を離籍し、かまぼこ工場で働いていた。
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、日本は特需景気で息を吹き返した。田口鐵工所にも軍服やパラシュートを作るためのミシンのはずみ車の仕事が舞い込み、留造と雅征は取り組んだ。しかし報酬は微妙であり、町からは幸の父のように工場をたたんで去っていく者もいた。
戦況は一進一退で、1952年3月にはGHQが武器製造を解禁し、田口鐵工所にも迫撃砲弾の依頼が届く。だが旋盤1台しか持たない留造は応じず、大倉()が設備を整えると申し出た。戦争が続く限り需要は尽きないと雅征は賛同したが、留造は拒んだ。その頃、幸は子を背負って働いており、戦争未亡人となった彼女に子供ができて居場所を失っていた。雅征は「自分が面倒をみる」と申し出るが、幸は遠慮した。
やがて雅征は再び父に武器製造を訴える。留造は「この国は平和になった」と断るが、雅征は「平和でも食っていけなければ意味がない」と反発した。母は制止するが、留造は心情を吐露する。かつて武器を作ったのは「お国のため」ではなく、戦争に奪われる命を減らすためだったという。雅征は「もっと金が欲しい、ええ暮らしがしたい。そうせんと、大事なもん守られへん」と訴えた。母は涙ながらに「あほやけど、たった一人生きて帰ってきてくれた子や。せやからちょっとぐらい、ええことあってもええんちゃうか」と懇願し、留造もついに「それでお前が胸張れるんやったらやってみい」と許しを与えた。
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、田口鐵工所も新たな門出を迎えた。砲兵工廠で共に働いた石川()は民需部門のミシン製造を担当し、軍需部門の砲弾は雅征と留造が引き受けた。妻は経理を担い、雅征は幸と結婚して子のミチコを迎え入れた。新たに「田口金属工業」の看板を掲げ、家族はそろって写真に収まった。
第三章 血と金型 1952年~
ある日、田口金属工業に、朝鮮出身の夫成民(趙珉和)が訪ねてきた。彼は留造と雅征に「武器を作るのをやめてほしい」と訴えた。「あんたが作った砲弾、一つでも海を渡らなかったら100人助かる。人間潰されんで済む。これ以上、俺の国めちゃくちゃにせんといてくれへんか」と真剣に語った。雅征は耳を貸さず「わけのわからないことを言うな」と突き放すが、夫は「あんた、フィリピンやったって聞いたで。ぎょうさん見てきたやろが、死体。女子供もおったんちゃうか」と言い残し、去っていった。その言葉が雅征の心に残り、作業中に怪我を負った。夜には戦場の悪夢にうなされる。
ある日、雅征は猪飼野で夫と再会する。夫は育ての親の工場から持ち出したネジやナットを手にし、「同胞を殺す道具だから許せない」と主張した。すると親は「ほなもう朝鮮人やめたるわ!」と叫んだ。雅征に気付いた夫は日本人立ち入り禁止だというと、雅征は「ここは日本だ」と反論。夫は「俺等おるから大阪は回っとんねん。汚いも危ないんも全部こっちがしょっとんじゃ」と返した。
そして「泣く親を見るのは辛いが、もっと辛いのは親が何も知らずに武器を作り、同じ血を流す人間を殺すことや」と語った。雅征は「今度の納品が終わったら、武器から手を引く」と打ち明けた。どうやって生きていくかは決めていなかったが、「忘れたふりしたら、忘れられると思とったけど、そう簡単にはいかんかった。寝覚め悪い」と胸の内を語った。夫は「困ったときは相談に乗る」と応えた。
1953年7月27日、朝鮮戦争は休戦を迎えた。日本は特需景気を足がかりに高度経済成長へ突き進む。休戦から6年後の1959年、雅征は武器作りから完全に身を引き、金型職人として新たな道を歩み始める。プラスチック成形技術が発展し、同じ製品を大量生産できる時代が訪れた。かつて大砲を製造していた人々は、今やテレビ、洗濯機、冷蔵庫の部品を作り出していた。
1970年、大阪万博の開催が決定し、日本中が浮かれた空気に包まれる。その一方で、その熱狂に異を唱える若者たちがいた。大学1年生になったミチコ(伊東蒼)もその一人である。彼女はベトナムでの戦況を憂えた。アメリカ軍の爆撃で民間人が犠牲となり、その爆撃機は沖縄から飛び立ち、物資は日本から供給されている。日本はその流れに乗って潤っていたのだった。
第四章 鉄クズと戦闘機 1969年~
田口精工の看板を掲げ、家族揃って写真を撮ったのは1969年の夏だった。その頃、1年後に迫る大阪万博に対抗する形で、反戦のための「ハンパク」が計画されていた。会場は大阪砲兵工廠の跡地で、そこは片付けられて公園へと姿を変えようとしていた。大阪の過去を忘れさせないために、大阪の真ん中で「平和」を叫ぶ手作りの催しであり、全国から6万人以上が集まった。
ある日の戦争反対デモの場で、ミチコは祖父・留造と偶然再会する。「他人事に思われへんのや。これはあん時の自分かもしれへん思てな」と語る祖父の姿に、ミチコは感激し、設営の手伝いを頼んだ。矢坂(奥野壮)は戦争経験者である留造に、参加者の前で話をしてほしいとミチコに依頼する。
ハンパクの目玉は、九州大学に墜落した米軍偵察機ファントムの残骸だった。米軍が必死で回収を求めたが、学生と大学が拒否し、その一部が持ち込まれたのである。そこで留造は砲兵工廠での記憶を語り始めた。1945年8月14日の空襲、戦争が終わるのは決まっていたのに大阪は焼かれ、自らの末息子も命を奪われたことを語り、「一度でいいから手を合わせてほしい」と訴えた。
だが矢坂は手を上げ、兵器製造の責任を問うた。「朝鮮戦争で砲弾を作り、大儲けした者もいる」と糾弾されると、ミチコはマイクを奪い「失礼です!」と制止する。留造は「作っとりました」と淡々と答えた。矢坂は過ちは正すべきだと迫るが、ミチコは憤然として「それは違う。うちら特需で育ったんや。勉強もできたし、『戦争反対』って叫べるのも豊かになったからや!」と叫んだ。
留造は残骸を見て「フライパン2つほどなら作れそうや」とつぶやき、「戦争終わってもう武器はこりごりやっったから、まあせやからあのときは、心ならずもやったんですけど。まあ、でもそんなん言い訳にならしませんな。実際、わしがつくった弾でようさん人が死んだんや。せやけど後悔はしとりません」と告げた。ミチコが結核にかかったとき、金があったから医者に診てもらえた。あの時の命が今ここにあるからだと笑った。
矢坂は「話を逸らさないでくれ」と胸のバッジを外して見せた。「殺すな!」と書かれたそれは「アメリカだけに言うてるんやない。俺は絶対に殺す側に回らん決意や」と叫び、留造にどちらの側なのかと迫った。留造は「そないに一点のシミもない人間やないと、戦争に反対したらアカンのかいな」と返した。
帰り道、留造は「人前でするもんやないな」と笑い、ミチコは「ごめんな」と謝った。地面に埋まった鉄くずを見つけた留造は掘り起こしながら「当時の大阪は全部鉄くずやった」とつぶやいた。するとミチコは「うちが忘れへん。大阪が鉄くずやったこと、ずっと忘れへん」と答えた。
【大阪激流伝】の結末
1970年、大阪万博が開幕した。しかしミチコはハンパクにも万博にも参加しなかった。自分の気持ちを整理できなかったからである。
2年後、祖父の遺影に手を合わせたのち、工員たちは作業に取りかかった。その中には矢坂の姿もあった。就職に失敗した彼を祖父が工場に誘ったのだ。ハンパクで見せた生意気な態度が気に入ったという。
雅征は矢坂に、かつて父から言われた「目で作業するな、摩擦の匂いと当たりで感じろ」という言葉を伝える。だが矢坂は「そんな感覚的なことを言うから技術が継承されない。早くNCを導入したらいい。楽して儲かる工場が完成する」と反論した。雅征は「工場は楽する場所ちゃう、ええ仕事をする場所や」と応じる。矢坂が「大砲の弾もええ仕事になるんですか」と問いかけると、雅征は祖父や父の言葉を織り交ぜ「つくるもんに貴賤はあれへん。胸張れると思ったんなら、それがええ仕事や」と答えた。
2025年、大阪は再び万博で盛り上がっていたが、ものづくりの現場はすでに陰りが見え始めていた。工場の数はかつての5分の1にまで減少していたのである。だが、跡継ぎがいない、働く者がいないと辛気臭いこと言うても仕方ない。誰彼を巻き込んでちゃっかりやっていくのが大阪っちゅうもんやという精神で、今も日々誇りを持って働いている人たちがいた。
【大阪激流伝】のまとめと感想
戦後から好景気に沸く日本を戦争と工場という話を交え、大阪の町工場視線で見たドラマでした。
戦後の大阪が鉄くずの状態から立ち直った背景には、その当時の様々なことが関係していたと分かります。そしてその都度、戦争と町工場の立ち位置について考えさせられます。
雅征は当初、平和でも食べていけなかったら意味がないと、砲弾作成に乗り出します。散々反対していた留蔵も、結局仕事を引き受けました。しかし、夫成民の言葉をきっかけに、戦争の惨劇を忘れられなかった雅征は自らやめました。今度は砲弾を作っていたことを、新たな世代から留蔵は責められます。しかし、なんら後悔はないと留蔵は言い切りました。
これだけ見ると調子のいいことを言っているように見えますが、その裏側には描かれていない葛藤や家族との人生があったと想像できます。なので最終的に胸張れるかどうかがいい仕事、という話で終わったのだろうと思われます。
役者さん全員ネイティブな言葉使いがとにかくよく、すっと物語が頭に入ってきましたし、当時の大阪の情景が思い浮かべられました。今後も会話が方言メインの場合はこういった配役でお願いしたいものですが、どうにも違和感を混ぜたいのか、中々実現されません。それだけに、非常に印象に残るドラマでした。